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[コラム] 関東の絹の道

幕末から明治にかけて、海外との本格的な貿易が始まります。日本初のタオルもこの頃に大阪に輸入されています。タオルの原料である綿、及び綿布は、インドやイギリスの安くて質のいい製品に押され国産品は苦境に立たされます。一方、同じ天然繊維である「絹」や絹織物は、当時の輸出産業の花形でした。開港されたばかりの横浜には輸出用の生糸が大量に集められたのです。
江戸時代から、幕府は養蚕を奨励するようになります。まずは天領から、後には大小各藩が養蚕や絹織物産業に力を入れたため、徐々に各地域において生糸や絹織物の産地が形成されました。町民文化が花開いた時期で需要が伸びたこともあり、江戸末期には中国の輸入ものよりも国内の生産量が上回るようになっています。従来より信州・甲州・武州などから八王子に絹が集められていましたが、開港後、八王子から横浜まで大量に運ばれました。この八王子~横浜間の最短ルートであった街道が「絹の道」とよばれたのです。
日本が近代化を進める上で、養蚕業、製糸業は国の重要な基幹産業であり、殖産興業の立役者のひとつでした。世界有数の養蚕国であったフランスとイタリアではカイコの微粒子病が大流行しており、日本にとっては追い風となります。江戸時代の諸藩の生産奨励により生糸の生産者が多く、機械化によって供給も増え、明治から大正にかけて日本の主要な外貨獲得手段でした。
出荷地である横浜には生糸検査所も設けられました。当時としては珍しい4階建ての鉄筋コンクリート造の施設だったそうです。生糸輸出は大いに繁栄しますが、「絹の道」はその後、明治22年に甲武鉄道(現在のJR中央本線)、明治41年に横浜鉄道(現在のJR横浜線)が開通すると、輸送手段が鉄道に代わってしまい、次第に衰退していきました。富岡製糸場を始めとする絹産業の遺跡に関心が向けられる中、絹の道も地域の観光資源、歴史資産として近年注目を集めております。