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[コラム] 今治港とその歴史

今治は、かつて村上水軍が活躍(?)した芸予諸島がすぐ近くにある、海に面した穏やかな気候の町です。瀬戸内海の本航路に接しており、古くから船着場があったようで「今張」の名が太平記にも残されています。現在の今治港は、1600年に藤堂高虎が城を築いた際に、付近に舟入船頭町を作ったことに起源を発します。
明治以降、今治の商工業の発展に伴い貨物量も増えていきますが、当時は水深も浅く、堤防などもなかったため、汽船は沖合いに錨を下ろして艀で荷物を運んでいました。具体的に港湾整備が進むのは大正時代以降で、今治の綿織業の活性化がそれを後押ししました。すでに明治の中期から伊予綿ネルが軌道に乗っており、原料の綿の輸入や、製品搬送や輸出に大量輸送の必要性が高まっていました。
今治港俯瞰
地元の働きかけもあり、1921年(大正10年)重要港湾に指定され、続く1922年には四国初の開港場にも指定されました。港湾工事は国の直接施工による10年以上の大工事で、浚渫土を再利用した埋め立てや岸壁、防波堤、荷揚げ場、内港など次々と整備されました。1924年には今治港務所も開設されています。当時の今治入港船舶の移入品の過半が綿糸や綿花で、移出品の多くは綿ネルだったそうです。コンテナ革命以前ですので貨物の荷積みや荷下ろしを人力で行っていた沖給仕たちでたいそう賑わっていたことでしょう。
戦後、車社会の到来とともに瀬戸内海ではカーフェリーが増えます。民間で初となるカーフェリーは、今治と瀬戸内海をはさんで対面となる三原との間でした。また、貨物量と旅客の増大に応じて港湾拡張も進みます。カーフェリー自体はしまなみ海道の開通に伴い縮小されましたが、逆にコンテナ航路はその振興のため、1986年にジブクレーンを設置、1996年には四国初となるガントリークレーンも設置されました。東アジアのコンテナハブ、釜山との間に定期便も就航しています。港湾取扱貨物量も100万トンを越え、海上交通の要衝として重要な役割を今後も担うでしょう。
(写真出典:観光庁