1867年に薩摩藩に創設された鹿児島紡績所は日本最初の紡織工場として知られます。薩摩藩主島津斉彬は、イギリスからもたらされた規格統一した綿織物の品質の高さと安さに驚き、同時に国産が全く歯が立たないことも実感しました。彼はすぐにイギリスに藩士を派遣し、機械を購入したり技師を招いたりして、西洋にキャッチアップを図ります。
鹿児島紡績所には開綿機から練紡機までの各工程の機械と、ミュール紡績機やスロッスル紡績機が多数導入されました。紡績所の開設時にはすでに斉彬は没していましたが、後を継いだ島津忠義の代に完成しました。全国各地にも次々と紡織工場が作られ、明治に入り殖産興業の名のもと政府によって繊維工業の育成政策も進められたこともあり、一大産業に成長します。
当初、国内でも綿花栽培が行われておりましたので国産綿を使用していたようですが、はるかに輸入綿のほうが安いため、政府は綿花栽培を諦め原糸を輸入糸とし、もっぱら機械紡績の発展に邁進するようになります。その後、鹿児島紡績所は官営工場になっていましたが1897年、30年の長い稼動のあと解散いたします。当時の紡織工場の多くは、まだまだ規模が小さく、生産量の少なさがコスト高の原因となっていました。技術的にも途上期であって、事業として成功するのは1882年に設立された大阪紡績会社以降となります。大阪紡績は1万500錘もの規模をもち、動力に蒸気も使用されました。また、1日2交代の昼夜操業を実施して大成功し、それに刺激されて大阪周辺には続々と大規模紡績工場が設立されました。日露戦争のころには「東洋のマンチェスター」と言われたそうです。
鹿児島紡績所は単独事業としては大きな成功ではなかったかもしれませんが、先駆者としての功績はとてつもないものがあります。イギリスから技術やノウハウを吸収し、実践し、モデル事業として先頭に立って稼動するには大変な苦労があったことでしょう。また当時、19世紀半ばにはアヘン戦争という大事件がありました。戦争の是非はともかく、西洋の脅威に対して殖産興業と富国強兵が不可欠であると考え、すぐに軍事・財政・教育などの各分野で改革を進めた斉彬の慧眼も賞賛に値するでしょう。
その後、紡績・織物業は軽工業の中心として、食品加工業とともに日本の輸出産業を支えます。戦後の統計では輸出額の過半が織物だったとのこと。高度経済成長期には一気に一ケタ台まで比率は下がりますが、日本経済を支えた機械紡績の祖として鹿児島紡績所の名は語り継がれることでしょう。
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