戦後、国内随一の織物産地としての地位を確保していた今治。高度成長期には、それまでにない「タオルケット」などのヒット商品が生まれます。そして1960年代、今治はタオル生産日本一となりました。
ところが、1980年代後半より、安価な海外製タオルにおされ始めます。安価な海外製品の流入と時を同じくして、製造業の海外移転が加速します。このダブルパンチによって産地は疲弊。タオル生産量は1991年頃をピークに、2000年代には最盛期の5分の1にまで落ち込んでしまいました。
そうしたことを受け、2004年にタオル組合では「新産地ビジョン策定委員会」を設置。今治のタオル産業が自立して生き残る道を模索しはじめます。
海外勢におされていたことに加え、OEM生産(他社ブランド製品の生産を受託する「相手先ブランド名製造」)に頼りすぎることによる弊害が出ていました。有名ブランドの名前で商品を作れば、数量の安定化ははかれますが、単価は供給先の言い値です。そのことが生産業者への大きな負担となっていました。
また、当時、タオルはギフトとしての需要が多く、毎日使うものであるにもかかわらず、ほとんど自分の手で購入することはないという認識でした。高品質で安全な製品を世に出しても、その価値を理解してすすんで購入してくれるお客様は少なくなっていたのです。
そんな中、今治タオルは2006年に経済産業省の「JAPANブランド育成支援事業」に採択されます。地域が一丸となって、地域の伝統的な技術や素材などの資源を活かした製品等の価値・魅力を高め、「日本」を表現しつつ世界に通用する「JAPANブランド」を実現していこうとする取組みを国が総合的に支援するものです。今治商工会議所が主体となり、四国タオル工業組合及び今治市が連携し、2006年度から2009年度まで、「今治タオルプロジェクト」が「JAPANブランド育成支援事業」として実施されました。
クリエイティブ・ディレクターとして著名な佐藤可士和氏にブランド構築を依頼することになり、当初は仕事を受けることに後ろ向きであった佐藤氏でしたが、お土産として渡された今治産バスタオルの品質の高さ、感動的な風合いと心地よい肌触りに、「これなら!」とブランド再生に向けての意欲が湧いたという話はタオル業界では有名です。
ブランディングにおけるキーとなったのは今治タオルの「本質的価値」である「安心・安全・高品質」。佐藤氏のディレクションのもと、本質的価値を見極めるブランディングのキープロダクトは「白いタオル」に決まりました。佐藤氏の意向は柄の表現よりも「使い心地」を重視したものです。「ないものを付加するのではなく、元々あるものを磨くこと。」という佐藤氏の戦略のもと、今治タオルは再スタートを切ります。
その後、今治タオルブランドのロゴマークが制定され、一定の品質基準を満たしたものにのみロゴの使用を認めることになりました。それまで各社がバラバラでブランディングしていたものが「今治ブランド」として統一されたのです。また、高品質なタオルとして認知されるようさまざまな取り組みも始まりました。佐藤可士和デザインのタオル販売を伊勢丹で行ったり、フィンランドやイタリアの展示会・見本市へ出展したり、南青山にアンテナショップを開店するなど、積極的なPRは奏功します。やがてマスコミも今治タオルのブランディングに注目するようになり、知名度は飛躍的にあがりました。それに伴い、生産量も回復に向かっています。
今治タオルの認知度は、プロジェクト開始前の2004年には「何となく記憶がある」人も含めわずか36.6%でしたが、2012年には71.0%に達しました。そのうち確実に知っている人は17.5%から51.5%に増加し、5割を超えました(四国タオル工業組合調べ)。
現在では、「今治タオル」といえば国産の高品質タオルとして広く認知され、その品質に惚れ込んで買い求める愛用者も増えています。また、高級ホテルなどの備品としても数多く採用され、ホテル仕様の高級タオルとして売り出された人気商品もあるほどです。四国タオル工業組合は世界に通用する今治タオル産地のイメージを獲得するために、国内外を問わず「今治タオルプロジェクト」を実施しています。今治ではこれまでもこれからも品質の優れたタオルを作り続け、世界中のみなさんに愛用してもらえるよう努力する取り組みが行われているのです。
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