キーワードで検索

愛媛県今治(いまばり)市は生産量日本一のタオル産地です。生産地としての歴史は古く、明治初期にタオルの原型が日本に持ち込まれたあと、短期間で今治まで伝わり、以来たくさんの人々の努力によって、世界に誇る最高品質のタオルを生む一大産地となりました。瀬戸内海に面する今治は晴れた日が多く、穏やかな気候と天然の軟水にも恵まれ、タオルを生産するのに最も適した環境といえます。

今治タオルと豊富な水資源

西日本最高峰の石鎚山付近に流れる川は、伏流水に恵まれ、硬度が低く不純物が少ないのが特徴です。この恵まれた環境の中で作られる今治タオルは、安心・安全をうたった肌ざわりの良いもので、JAPANブランドの名に恥じない上質で年齢層を問わず親しまれるタオルとして全国に出荷されます。

今治タオルの特徴といえば「先晒し先染め」製法。先に水で「晒す」ことにより、やわらかい風合いのタオルに仕上げることができる製法ですが、水を大量に使用するため、良質で豊富な水が必要不可欠です。染めも含め、良質な軟水が豊富に確保できることが良いタオル作りの条件でした。

絶え間ない技術革新が続く今治タオル

国内随一の産地である所以は、絶え間ない技術革新、多くの人が努力を続いてきたためです。各メーカーさんは今なお新たな技術の研究と導入を続けられています。中村忠左衛門によって導入されたジャカード織機は、従来の「織る」→「晒す」→「染める」の順番であった製法を、はじめに「晒す」→「染める」→「織る」という「先晒し先染め」製法に改めました。

先に精練することにより、やわらかい風合いのタオルに仕上げることができるようになり、この製法は現在にいたるまで、今治タオルの特徴となっています。糸を先に染めた上でジャガード織りすることより複雑で繊細な柄を表現できる技術も確立されました。

ピンチから再生(今治タオルプロジェクト)へ

1980年代後半より、安価な海外製タオルにおされ始めます。安価な海外製品の流入と時を同じくして、製造業の海外移転が加速します。このダブルパンチによって産地は疲弊。タオル生産量は1991年頃をピークに、2000年代には最盛期の5分の1にまで落ち込んでしまいました。そんな中、2006年に経済産業省の「JAPANブランド育成支援事業」に採択されます。

地域が一丸となって、地域の伝統的な技術や素材などの資源を活かした製品等の価値・魅力を高め、「日本」を表現しつつ世界に通用する「JAPANブランド」を実現していこうとする取組みが始まりました。今治商工会議所が主体となり、四国タオル工業組合及び今治市が連携し、2009年度まで、「今治タオルプロジェクト」が支援事業として実施されました。

現在では、「今治タオル」といえば国産の最高品質タオルとして広く認知され、その品質に惚れ込んで買い求める愛用者も増えています。また、高級ホテルでも数多く採用され、ホテル仕様のタオルとして売り出された人気商品もあるほどです。今治ではこれまでもこれからも、品質の優れたタオルを作り続け、世界中のみなさんに愛用してもらえるよう努力する取り組みが行われているのです。

タオルの誕生とその歴史

人々の生活には水は欠かせません。水を拭き取る、吸収する道具としてのタオルのご先祖さまは、有史以前から様々な素材のものがあったことが考古学の研究から分かっています。日本でも古くから手ぬぐいが使われており、原材料は麻や絹でしたが、その歴史は国内の織物の歴史ともいえるほど、とても身近なものでした。

今日、水を拭く道具として真っ先にあがる「タオル」は、いつ生まれたのでしょうか。日本で一般的にタオルと呼ばれるパイルを持つ織物が生まれた歴史を紐解いてみましょう。

トルコのハマムとタオルの誕生

トルコには、古くからハマム(Hamam)という公衆浴場(トルコ式風呂)の文化がありました。日本の銭湯やサウナのような場所ですが、宗教的な意味あいも持っているのがハマムです。イスラムの教えでは体を清潔に保つことがとても重要視されます。そのため、トルコ人をはじめムスリムの人たちにとってハマムは体を清潔に、浄化できる大切な場所であり、また社交の場でもありました。今ではそのは減ったものの、ハマムは地元の人に親しまれている文化です。

ハマムとタオルは切っても切れない関係です。ハマムには裸に大判の布(タオル)を巻いて入ります。その姿で長時間くつろぎながら楽しむ交際、娯楽の場として、ハマムは庶民に愛されてきました。古くからハマムで使われていたタオルは「ペシテマル(Peshtamal)」と呼ばれます。紀元前から今に伝わるトルコの伝統工芸品です。体をすっぽり包めるほど大判で、これを体に巻いたり、体を拭いたり、大理石の床に横になり汗をかくときの敷物としても使います。とても吸水性が高くすぐに乾くのが特長です。タオルの役割をしますが、現代のタオル地のようなパイルはありません。

では、パイルのあるタオルが誕生したのはいつ頃でしょうか。

オスマン帝国の発展に伴い、トルコではより精巧なデザインの、凝った織物がハマムでタオルとして使われるようになります。織物職人たちは絨毯織りの技術を取り込み、さまざまな試行錯誤を重ねました。そして18世紀、トルコ北西部の町、ブルサで現在のパイルのあるタオルの原型が生まれたといわれています。当時、パイルのある織物はすべて職人による手織りで、1日に3~4枚作るのが限界だったといいます。それはやがて「havly」として知られるようになり、現在はトルコ語で「havlu」が、「タオル」「ループ付き」を意味する言葉となっています。

ループパイル生地の工業化

1800年代、トルコを旅行したイギリス人民族学者ヘンリー・クリスティーは、ハーレムで手工芸品として作られていたループパイル織物と出会います。その珍しい生地に可能性を感じた彼は、帰国後、父親の会社で働いていたサミュエル・ホルトにパイル織物を生産販売できないか相談しました。ホルトは手織機で試し織りを重ねました。そして1850年、最初のクリスティタオル工場が開設されました。

クリスティのタオルは、ロンドン万国博覧会で展示され、ビクトリア女王も顧客に名を連ねました。「ターキッシュタオル」と名づけられたそれは、またたく間に広まりました。

ターキッシュタオルはアメリカにも渡ります。1890年代、それまでポピュラーだったプレーンリネンタオルに替わり、よりソフトで吸収力の高いパイル地タオルが好まれるようになりました。アメリカではタオル製品の販売とともに、タオル生地の計り売りがあり、買った人が家で好きなサイズに切って、ヘムの処理をしてから使うことも珍しくありませんでした。家族の体格や好みに合わせて、ぴったりのサイズのタオルにして使っていたのかもしれません。

アメリカでは他の製造業と同じく織物工場でも機械化が進み、タオル生地の大量生産が可能になります。機械工業化によって、より多くのタオル製品が作られ、安く手に入るようになり、多くの人に使われるようになったのです。

タオル、日本へ

日本に初めてタオルというものが輸入されたのは1872年(明治5年)だといわれています。当時の日本では輸入品はとても高価で、人々はそれで手や顔を拭くとは思いもしませんでした。やわらかな手触り、保温性も高く通気性もいいということで、襟巻きや首巻きとして使われていたのです。呼び名はタオルの中国語表記である「毛巾」が一般的でした。襟巻きに使われていたことは、後にタオルマフラー開発のきっかけにもなります。

日本の産業革命とタオル

1900年頃になると、日本国内でもループパイルのあるタオルが盛んに作られ始めます。今治でタオルづくりが始まったのが1910年(明治43年)ですから、その頃にタオル生産が各地で行われていたことがうかがえます。とりわけ大阪と三重はタオル生産の一大産地でした。

多くのタオルが流通するようになり、日本人の日常にもタオルが浸透します。タオルがタオル本来の用途で、一般的に使われるようになりました。さらに1930年代には、技術の進歩により、浴用タオルのほかにもパジャマ、ガウンなどさまざまな商品が生産されるようになります。

その後、高度経済成長期にはタオルケットも誕生し、大ヒットしました。今では、ハンカチ、ベビー用品、ルームウェア、枕カバーやシーツなどの寝具、ぬいぐるみ、フェイスマスクなど、タオル製品のジャンルは多岐に渡り、タオルは私たちの生活に欠かせないものとなっています。

今治の織物産業

江戸時代より綿栽培が盛んだった今治は、江戸時代の後期に藩が伊予木綿(いよもめん)の生産を督励したこともあり、綿織物の一大産地として知られるようになりました。しかし、明治時代になると他の産地から安価な木綿製品が全国へと出回るようになり、伊予木綿も徐々に衰退してしまいました。

そこで、その綿織物の伝統を引き継いで登場したのが「綿ネル」(ネル=片面だけ毛羽立ちさせた丈夫な綿織物)です。矢野七三郎が和歌山で生産されていた綿ネルの技術を習得し、改良を加え、伊予木綿に替わる織物として「伊予綿ネル」として今治に広めました。これにより今治の繊維産業は再び活気を取り戻しました。伊予絣(松山絣)とともに愛媛を代表する織物となります。

その後、1910年(明治43年)に綿ネル業者であった阿部平助は、他の地域で始められていたタオルに可能性を感じ、大阪で開発されたタオル織機を導入して今治でもタオルづくりをはじめました。「今治タオル」の誕生です。以来120年に渡り、今治では地場産業としてタオルが作られています。

技術革新と競争力の向上

1910年(明治43年)、今治で「二挺(にちょう)式バッタン」と呼ばれる織り機が導入されました。同時に二列のタオルを織ることができる織機の導入は生産効率の向上につながりました。その後、1918年に中村忠左衛門がジャカード織機を導入します。ジャカードでタオルの柄の自由度が高くなったため、先晒しに改めました。先晒し(先染め)とは、初めに綿糸の晒し(精錬、漂白)と染色を行ない、色糸でタオルを織る方法です。

織り上がったタオルに高級感とデザイン表現の豊かさが生まれました。また、先に水で「晒す」ことにより、やわらかい風合いのタオルに仕上げることができるようになり、この製法は現在にいたるまで、今治タオルの特徴となっています。

織物業の町と港

豊かな水と平野、江戸時代の綿花栽培、海運の中継点として新しい情報・技術の流入といった、地理的な条件に恵まれた今治の町。綿織物の発展により愛媛の経済圏の一角を成す一方、輸送面のインフラ整備も進められてきました。今治という町の背景に迫ります。

今治の綿産業と伊予絣

今治では江戸時代より綿栽培が盛んでした。瀬戸内海に面した温暖な気候と少ない降雨量が、綿花の栽培に適していたからです。そんな今治の綿を使って誕生したのが、「伊予絣(いよかすり)」です。

九州の絣織物(前もって染め分けた糸を経糸、緯糸に使用して織り上げ文様を表す織物)を手本とし、鍵谷カナが松山で創始したものとされています。伊予絣は松山藩の保護を受けた綿産業をベースに、家内制手工業として発展しました。染めと織りに非常に手間のかかる品ですが、明治10~20年頃から本格的に生産高が増え、日露戦争(1904年~)の頃には国内トップシェアを誇りました。しかし、第一次世界大戦(1914年~)をピークに、生活様式の西洋化や洋装の普及がすすむにつれ、日常生活で目にすることは少なくなっていきました。

紺と白のコントラストが美しい、日本三大かすりの一つ、伊予絣。今でも松山市で製造されており、素朴な風合いと味わいは、使う人の心をほっこりさせてくれます。日本で古くから庶民の間で親しまれてきた独特の色彩と、洗うほどに灰汁が抜け、鮮やかになる色味が絣の魅力。伊予絣においても「今治タオル」の特徴である「先晒し先染め」製法が採用されています。両者の関連性については定かではありませんが、染色や織りに手間をかけ高い品質を求める姿勢には共通するものがあるのかもしれません。

今治港の整備と輸出促進

今治は海に面した穏やかな気候の町です。瀬戸内海の本航路に接しており、古くから船着場があったようで「今張」の名が太平記にも残されています。現在の港は、1600年に藤堂高虎が城を築いた際に、付近に舟入船頭町を作ったことに起源を発します。

明治以降、今治の商工業の発展に伴い貨物量も増えていきますが、当時は水深も浅く、堤防などもなかったため、汽船は沖合いに錨を下ろして艀で荷物を運んでいました。具体的に港湾整備が進むのは大正時代以降で、今治の綿織業の活性化がそれを後押ししました。すでに明治の中期から伊予綿ネルが軌道に乗っており、原料の綿の輸入や、製品搬送や輸出に大量輸送の必要性が高まっていました。

地元の働きかけもあり、1921年(大正10年)重要港湾に指定され、続く1922年には四国初の開港場にも指定されました。港湾工事は国の直接施工による10年以上の大工事で、浚渫土を再利用した埋め立てや岸壁、防波堤、荷揚げ場、内港など次々と整備されました。1924年には今治港務所も開設されています。当時の今治入港船舶の移入品の過半が綿糸や綿花で、移出品の多くは綿ネルだったそうです。コンテナ革命以前ですので貨物の荷積みや荷下ろしを人力で行っていた沖給仕たちでたいそう賑わっていたことでしょう。

戦後、車社会の到来とともに瀬戸内海ではカーフェリーが増えます。民間で初となるカーフェリーは、今治と瀬戸内海をはさんで対面となる三原との間でした。また、貨物量と旅客の増大に応じて港湾拡張も進みます。カーフェリー自体はしまなみ海道の開通に伴い縮小されましたが、逆にコンテナ航路はその振興のため、1986年にジブクレーンを設置、1996年には四国初となるガントリークレーンも設置されました。東アジアのコンテナハブ、釜山との間に定期便も就航しています。港湾取扱貨物量も100万トンを越え、今治タオルの海外進出に向けても、重要な役割を今後も担うでしょう。(写真出典:観光庁)

世界の高級綿とオーガニックコットン

毎日の生活で使うタオル。といっても種類は様々で用途や使う人の好みによって使うタオルも変わります。そのニーズに合わせて世界中で様々な種類の綿が栽培されています。今治タオルではその中でも繊維長の長い、希少性の高い綿がよく使用されます。

主な超長繊維綿の種類

細くしなやかな糸を生み出す繊維の長い超長繊維綿。しかし、その生育には、気候や土壌など多くの条件が必要なので限られた地域でしか栽培できず、その生産量も綿花全体のわずか5%程度です。 西インド諸島で栽培されている海島綿(シーアイランド綿)も超長綿です。繊維長は1.16/32インチを超え、エジプトのギザ45を上回る光沢さとしなやかさを持っています。

セントビンセント島産の海島綿とインド在来種の超繊維綿スジャータとの交配によって生み出されたスビンは、繊維がもっとも細くしなやかな超長繊維綿で、シルクに近いしっとりとした手触りが特徴。インド・デカン高原南部のタミル・ナードゥ州の限られた農家だけで栽培されています。

海島綿(かいとうめん)
繊維が長く、強さとしなやかさを併せ持った海島綿。カリブ海のごく限られた地域でしか育てられない幻のコットンと呼ばれています。かつては貴重品のような扱いで英国王室御用達にもされたことのある、高級綿です。高級カシミヤのような肌触りが特徴で今もなおファンが多い高級綿です。
新疆超長綿(しんきょうちょうちょうめん)
晴天が多く、極端に雨の少ない砂漠特有の気候で、天山山脈から流れる雪解け水を利用して栽培された高級綿。この環境が美しい独特の白さを持った上質な綿をつくります。昔ながらの手摘み方法で丁寧に収穫された特別な超長綿です。
スーピマ綿
高品質なアメリカ産の繊維綿にだけ与えられるブランドのスーピマ綿。長年にわたり、常に安定した品質の高い綿を産出しているのが特長です。(スーピマ綿はスーピマ協会の登録商標です)
エジプト綿
約100年前にエジプトで発見されたエジプト綿。ナイル川の地域で栽培されるエジプト綿は、ほかの産地の綿より張りがあり強度も高く、耐久性の高さを要求される製品によく使われます。エジプト綿の中では、ギザ45、ギザ70、ギザ88などが有名で、新疆超長綿やスーピマと並んで高く評価されています。

オーガニックコットンとは

綿花は害虫に弱く、安定した収穫を得るためには多くの農薬や肥料が必要であり、環境に対する負担が比較的大きい作物と言われています。

オーガニックコットンとは、3年以上の期間、農薬や枯葉剤などの人体や地球環境に悪影響のある化学肥料を一切使用しないで有機栽培を行い、公的な認証を受けた綿花のことです。さらに栽培・生産された綿花を使用し、製品化されるまでの製造工程においても化学薬品を使用せずに作られます。この3年間というのは、農地で散布した化学薬品の影響がなくなるまでにかかるといわれる期間です。

化学薬品を使用しないで作られたものなので、肌刺激が少なく、自然環境にもやさしいので、敏感なお肌の赤ちゃんにもやさしいコットンです。お肌と地球にやさしい100%オーガニックコットンは、アトピーやアレルギーの方や赤ちゃんにも優しいので贈り物としても大変喜ばれています。
最近ではオーガニックコットンを使った今治タオルも販売するようになりました。敏感肌な方でも安心してお使いいただける今治タオルは人気商品となっております。

タオル産地の誇りと安心を伝える

意外に思われることかもしれませんが、タオルなどの綿織物には原産国表記の義務はありません。今治タオルの場合、日本の今治で作っていることが一般に浸透していますので、不要かもしれませんが、そもそもタオルのみならず繊維製品の原産国表記についての明確なルールと罰則がないのが現状です。原産国表記は、消費者に誤解を与える不当な表示を防ぐことで、消費者を守るのが目的です。日本国内では「景表法(不当景品類及び不当表示防止法)」において不当表示を禁じています。

原産国表記とタオル

アパレル業界においては日本アパレル・ファッション産業協会を中心に原産国表示マニュアルを策定し徹底を図っています。他にも業界それぞれ、あるいは企業単独で、原産国表記を定めているケースがあり、国内で統一されたルールは「景表法」「商標法(不当表示の禁止)」くらいしかありません。

これが輸出入となると「関税法」や相手国の「国内法」の出番となります。原産国虚偽や誤認の恐れがあると判断された場合、是正を促されるか、輸入物の差し戻しとなります。FTAやEPAといった二国間や多国間で関税を減免する為の協定を結んでいる場合に、原産品であることを正しく証明する必要もあるため、厳しく規制されるのです。

このように一般的な規定としては原産国偽装を禁止するようになっているのですが、工業製品においては、加工工程で複数の国をまたぐことも多々ある話です。そのため、どの加工をしたらどこの国の製品なのかが大事となります。衣料品については実質的変更をもたらす行為を品目ごとに定めており、例えば、製織、染色、縫製が該当します。タオルの場合は染色までを原産国とし、耳(端の部分)などの縫製だけでは国産とは認めないと、上記原産国表示マニュアル内で規定されています。今治タオルの特長は「先晒し先染め」です。製織よりも先に染色しますので今治タオルは全て日本製となります。

ブランドの証、認定マーク

今治タオルはそのブランド保護のため、規格外タオルと混同してしまわないよう、認定マークの展示や使用について厳格なルールを取り決めております。商品へのタグ(下げ札)やネームについてはもちろん、店頭での使用にもルールを定めており、ブランド確立への熱意が伝わってきます。

認定を受けたタオルには、その証としてヘムにネームが縫い付けられております。そのサイズも共通で、複数の今治タオルをお使いのお客様にも、そのネームを見るだけで、「同じ」今治タオル認定商品であることが伝わります。当たり前のことかもしれませんが、100社以上もある今治のタオルメーカーさんが、認定を受けた商品に、共通のネームを付けている。その統一とルールの遵守があるからこそ、どこのタオルメーカーさんが作ったものであれ、「これは今治タオルだからいいものだ」と安心感を与えてくれているのですね。

また、ネームの裏には4桁の数字が印刷されています。これは四国タオル工業組合の組合員(各メーカーさん)の固有番号です。ですので、お気に入りのタオルができて、同じメーカーさんのタオルを買い足したい、そんなときには企業番号から検索いただくこともできます。

お気に入りの今治タオル。
そのタオルの名前や作り手を知ることで、もっともっと好きになるかもしれませんね。